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長野県
信州紬の始まりは、奈良時代に織られていた「あしぎぬ」まで遡ります。
江戸時代初期には、信州の各藩が競って奨励したことから、養蚕が盛んになり、信州全域が紬の織物産地として栄え、毎年京都へ大量の紬が送られていました。
しかしその後紬織物の生産は下火になり、昭和の中頃までは、技術保存の名のもとに、わずかに続けられていたにすぎませんでした。戦後、県や市町村が紬織物の復興に力を入れたため、県下全域で生産が活発になり、高級な反物として、信州紬の名声も次第に高まりました。
信州紬は、先染めの平織物です。経糸に使用する糸は生糸または山繭糸、さなぎが2個入っている繭からたぐり出した玉糸、真綿の手紡ぎ糸(てつむぎいと)のどれかとし、緯糸には玉糸か真綿の手紡ぎ糸を使い、緯糸の打ち込みには手投げ杼(ひ)を用います。また、絣糸の染色は手括(くく)りによります。
花織は紋織で、浮糸によって縫取りのように見える織物です。紋織の裏糸が多く、それが綿入れの役目をすると言われております。この花織は3つの基本柄があって、その基本型を織手の工夫によって組み変えて、多くの柄を構成していきます。
扇花(オオジバナ) 風車(カジマヤ) 銭花(ジンバナ)
天蚕は野蚕の一種で山野に自生した蚕です。一般には山まゆと呼ばれて親しまれていました。糸としての歴史は定かではありませんが大同年間(806〜)大同類聚という医書にこの天蚕に関した記事が載っているそうです。織物としての記録は江戸中期の亨保(1716〜)から天明(〜1788)にかけて広島と八丈島で織られている。天蚕糸での織物は丈夫で弾力性のあることから刀剣を防ぐ布とされ、武士の間では珍重されていたと、といわれています。天蚕を飼育するようになったのは天明年間であって、それを産業としてはじめられたのは文政年間(1818〜29)になってからです。その頃、信州有明地方の山野は松、杉、その他の林で、ところどころ櫟が混在していました。天蚕はその櫟に繭をつくっているのを発見しました。家蚕が桑の葉以外を食べないのと同じで、天蚕も櫟を好んだのです。